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  • RuleとConsensus

     ここでは、米国におけるルールというものの一面について書いてみます。残念ながら詳しいことは覚えていませんが、ニューヨークで保守系の学者の講演会に参加した時のことです。米国の保守派の代表的な主張である「小さな政府」について、こんなことを話していました。「社会をルールに従って(Rule based)運営しようとするから大きな政府が必要になる。政府の理想は一時的政府(Temporary government)だ。何か問題が起きた時だけ代表者を選出して対応を決定し、対応が済んだら解散すれば良い。それが、決定に基づく社会(Decision based society)だ。」

     この論者の主張は、如何にも極端かもしれませんが、日本人には思いもつかないような発想で、そういう考え方もあるのかと妙に感心したことを覚えています。

     実際の米国社会は、日本とは大幅に違うとはいえ、ルールに従って運営されていると言ってよいと思いますが、ニューヨークの日常生活の中で、この「ルールより決定」、より的確に表現すれば「ルールよりコンセンサス」が優先されていると感じられる場面があります。それは交差点を渡る時です。

    マンハッタンの市街地で、道路を渡る時に信号に頼り切るのは危険です。自分が渡る方向が青になっても、横から突っ込んでくる車はかなりあります。なので、信号は参考程度にして、必ず交差方向から来る車を確認しないといけません。幸いなことにマンハッタンのStreet(東西方向の道路)はほとんど一方通行で、偶数番号が東向き・奇数番号が西向きと決まっていますから、一方向だけを確認すれば足ります。面白いのはここからで、交差方向の車を確認して運転手とアイコンタクトができると、こちらの信号が赤なのに停まって譲ってくれたりします。

    そんな時、Consensus rather than rulesという姿勢が、米国社会の中に潜んでいるのだなと感じたものでした。

  • Reception文化

     ここでは、米国に独特なパーティ文化の一面について書いてみます。

     米国で仕事をすると強く感じることですが、米国は日本など足元にも及ばないくらいの強烈な「コネ社会」です。どういう人と個人的なコネクションを持っているかということが、成功のための決定的に重要な条件なのです。

     これは一つには、米国では仕事が組織というよりは個人に割り振られていて、組織決定を待たずに責任者の判断でどんどん進められるという事情が関わっています。しかし、これは私の推測になりますが、明確な社会インフラがないところに多種多様な言語・民族・文化の人々が移民してきてできた国ですから、個人的なコネクションに頼る以外に生きていく術がなかったのかもしれません。

     そうした事情を背景に、米国では会議はもちろん、講演会、表彰式など人が集まる機会には立食パーティ形式のReceptionがほぼつきものです。ここでどういう人と出会い、コネクションを作れるかということが、その後の成功に大きく結びつくのです。これが日本人には全く理解できないところで、私がニューヨーク事務所長を務めていた自治体国際化協会は、政府系機関でもあるので、なぜ会議のたびに飲食に公金を使わなければならないのかとさんざん文句を言われました。

     さて、Receptionで知り合った人に自己紹介をして自分の仕事や活動を理解してもらい、コネクションにつなげるためのちょっとしたスピーチを「Small Talk」と言います。私がご縁のあったとある公益系の団体では、メンバーがReceptionで上手に自分たちの活動を知らせてコネクションを作れるように、団体内で「Small Talk Contest」をやっていて、私も見学させてもらいました。当然のことながら米国人にも話の上手い人と下手な人はいて、なかなか面白かったし、上手な人の話し方はその後自分も参考にさせてもらいました。

     英語の世界もまだまだ奥が深いですよ。

  • 山下社長のシャドーイング

     ここでは、生涯英語と無縁に生きてきた職人と英語との不思議な関係について書いてみました。

     大島で国際優秀つばき園の認定を取った施設の中に民営のつばき園、「椿花ガーデン」がありました。社長の山下さんは最高の椿職人ですが、英語はもちろん勉学とも無縁の生活を送って来た人で、当時65歳でした。しかし、とにもかくにも施設の管理者に英語で説明してもらわないことには審査に通りません。かくして山下社長に英語を喋ってもらう大作戦が開始されたのです。

     まず、山下社長に日本語で説明したいことを書いてもらい、英語の得意なメンバーがそれを英訳します。それを米国人ALTのジェームス君に修正してもらった後、日本人で発音がきれいなメンバー(最初からネイティブの発音を渡しても聞き取れないのではないかと懸念したのです。)が読み上げて録音します。そして英文にフリガナをつけたものと録音を山下社長に渡し、「何を言っているか全く分からなくて良いので、とにかく音を聞いて、同じように言えるようになってください。」とお願いしました。プロジェクトの趣旨には賛同していただき、私たちとの信頼関係もできていましたから、社長は不安な顔をしつつも、引き受けてくれました。

     しかし、やると決めたらそこは職人、一日中椿の作業をしながら聞き続け一緒に発音する努力を3週間もやり続けてくれました。いわば、3週間の間、1日8時間以上のシャドーイングを続けたのです。録音は山下社長の耳が慣れた頃にジェームス君が読んだものに変えました。

     結果は、プロジェクトとしては大成功でした。山下社長の、少なくとも表面的には流暢な英語に、英国人の審査員もいたく感心して、高い評価をしてくれました。

     ここまでは成功談なのですが、この話には続きがあります。この経験をきっかけに山下社長が英語に堪能になるという現象は起きていません。山下社長自身が格段にリスニングや発音の能力を向上させたということもありません。集中的シャドーイングの成果はそこまででした。

     シャドーイングという手法が無意味な訳ではありません。現に山下社長は短期的に大きな成果を挙げた訳ですし、私も新しい言語の学び始めの時などによく使います。ただ、シャドーイングは畢竟道具ですから、要するに「使いよう」なのです。

  • 私が「英語ができる」ようになった日

     英語ができるようになる瞬間は、自分で気づくものではなく、ある日突然やってきます。今日は、私がその瞬間を迎えた日の話です。

     皆さんは何年何月何日に英語ができるようになりましたか?私の場合は、2015年10月17日でした。

     私は長い間、自分は「英語ができない」ものだと思っていました。学生時代には「英語ができるようにならなければいけない」というプレッシャーだけは強く感じていて、読みもしない読めもしない英字新聞を延々と取り続けたり、英会話学校に通ってみても全然上達感がなくてやめてしまったりしました。その後地方公務員になり、仕事で英語を使うことは全くありませんでした。

     30代の半ばの頃、新しく開業する鉄道会社に派遣されます。そこで私は、ソウル市役所からの英文の手紙を受け取りました。ソウル市の副市長が日本を訪問する際に、その会社にも立ち寄って話を聞きたいという趣旨の依頼でした。当時はまだメールすらなかった時代で、日程調整のためには電話をかけるしかありません。何とか話すことを用意して電話を掛けたものの、電話口の向こうで「He is not here now.」と言われた瞬間、頭が真っ白になりました。先方の担当者がいないと聞いた瞬間に固まってしまい、一言も言葉が出なくなったのです。担当者と話すことは考えていたものの、いなかった場合に何というべきかは全く準備していなかったからです。この経験があってから、わたしはますます英語に苦手意識を持つようになりました。

     だからこそ、詳しいことは別の記事でご紹介しますが、大島で英国人の審査員に対応してプロジェクトを成功させ、小さな島のことですから「赤木支庁長は英語がペラペラだ」という噂が島中に伝わって、今日から自分は「英語ができる人」として生きていくことになるんだと思った時には、なんとも不思議な感覚でした。それが、2015年10月17日のことでした。

     私は、「英語ができる」ようになるとは、一面でこういうことではないかと思っています。自分が「英語ができる」かどうかは他人が判断することで、自分がある時点で自覚するようなものではないのではないかと。自分にできることは、地道に着実に自分の能力を高めることだけです。しかし、他人から「英語ができる」と思われたらそれなりの責任が生じます。それこそが、「英語ができる」ようになったということなのです。

     英語ができるようになる日は、あなたが思っているよりずっと静かに、しかし確実に訪れます。

  • TOEICさんとのお付き合い

     ここでは、TOEICという試験の問題点についてお話しします。しかし、私はTOEICを否定したり軽視したりする訳ではありません。TOEICさんは、人間に例えれば、「悪い人ではないけど深く付き合わない方が良い人」に属するので、距離を置いてドライに付き合った方が良い、ということが私の趣旨です。

     私は50代の半ばで初めてTOEICのL&Rテストを受験しましたが、第一印象は、随分珍問、奇問、悪問の類が多いなということでした。でも、事情が分かってくるにつれて、問題の所在が見えてきました。TOEICは、「実用的」な英語を看板にしている(この「実用的な英語」、「使える英語」という発想が日本の英語教育を悪くしたというのが私の意見なのですが、それはまた別の機会にお話しします。)ため、会話や問題文の内容の難易度を上げて、もっとアカデミックなものであったり、専門的なものであったりにすることができません。しかし、毎回のレベル感を揃えて、正答率を一定の範囲に収めようとすると、どうしてもある程度の分量の「難しい問題」が必要になります。その結果、設問の方を工夫して、重箱の隅をつつくような些末なことを聞いてみたり、質問の仕方を捻ってみたり、場合によっては引っかけ問題のようなものすら用意する必要があるということなのだと思います。

     言わば、TOEICの出題者は手足を縛られた状態で、困難な課題を与えられているようなものですから、とにもかくにも今日まで日本の英語力診断のスタンダードとして機能してきたのは、瞠目すべきことだと思います。しかし、私たちが出題者の苦労に付き合う必要はありません。特に、既に800点以上の高得点を持っている人が、更に上を目指して満点に近い点を取ろうとすると、結局こういう種類の問題で点を取ろうとすることになり、英語学習としてはお勧めできません。

     一方、S&Wテストの方は、まだ歴史が浅いせいもあるでしょうが、正直これでは試験になっていないと感じます。特にスピーキングテストは問題です。スピーキングというのは、誰かに何かを話すからスピーキングなので、一人でヘッドフォンをつけて端末に向かって話すことをスピーキングとは言いません。また、時間制限の余りの厳しさもいただけません。相手が話し終わったとたんにすぐ喋り出し、自分の言いたいことだけを機関銃のようにまくしたてる人は、良いスピーカーではないし、ましてや良いコミュニケーターではありません。この試験形態については、是非関係者に一考をお願いしたいところです。

     私はこれまで、TOEICの点数を上げるにはどうしたらよいですか、と聞かれた時には、「大学入試のように取り組んでください」と言ってきました。どの程度の点数を取ればよいかを見極め、過去問を参照し、「傾向と対策」を練った上で、純粋に受験技術として対処する、ということです。英語が使えるようになるかどうかとは切り離して考えた方が得策です。もちろん、どんな努力も無駄にはなりません。でも、TOEICで高得点を取る努力は、皮肉なことに、英語が実際に使えるようになるためには、余り「実用的な」努力とは言えないのです。

  • 発音トレーニング

     ここでは、発音のトレーニングに余り熱を入れない方が良い理由について書いています。

     2025年シーズンまで千葉ロッテマリーンズの監督を務めた吉井理人さんが、コーチ時代を回顧してこんなことを仰っていたのを見たことがあります。選手には、言葉で聞いたことをすぐに身体運動に表せる選手(ダルビッシュ選手はこの点で抜群だったそうです。)とそれが苦手な選手がいるので、言葉で指導して終わった気になってはいけない。

     これは、英語の習得に対しても実に示唆的です。まず、耳で聞いた音を正確に再現できるかどうかは、「音感」の問題に属し、トレーニングによって向上させることはできる(とは言え、英語の発音のためにソルフェージュや物まねの練習をすることには抵抗があるでしょうが)ものの、個人の資質の差が非常に大きいものです。そして世の中には、残念ながら「音痴」に類する人も確実に存在します。では、発音の方法、例えば声の出し方とか音のつなげ方とかを、言葉で説明したとしても、発音は口の中の極めて小さな動きではあるものの「身体運動」には違いないので、人によっては言われたことを実際に口の動きとして表すのが非常に難しい人もいるでしょう。何ごともそうですが、自分の苦手なことの訓練に大きな時間と労力を割くのは、あまり意義のあることとは言えません。

     でも、心配しないでください。何故なら発音はそれほど重要ではないからです。今の時代、お互いに連絡を取り合うのはチャットやSNSやメールなどが中心で、これらはいずれも文字情報です。また、お互いに対面で話をするときには、資料を見せながら話したり、ボディランゲージだったり表情だったりで、かなりの程度の情報を伝えることができます。昔も今も最大の難関は「電話」ですが、どうしても電話でコミュニケーションを取らなければならない機会は今非常に少ないのではないでしょうか。加えて、現代の英語話者の半数以上はノンネイティブと言われています。これはリスニングにとっては悩ましい状況ですが、発音に関してはかなり下手でも許されることになります。

     ただ、一つだけ気をつけてください。どんなに流暢で上手な発音でも、区切るところを間違えたら絶対に通じません。逆に発音に自信のない方は、区切り(フレージング)に全力を傾注してください。大丈夫、絶対に通じます。

  • 単語の暗記が無意味な理由

     ここでは、なぜ“単語の暗記”が英語力につながらないのか、その理由と代わりに何をすべきかを解説します。

     単語の暗記とは何でしょうか?やり方は人それぞれ違うかもしれませんが、とりあえずここでは、単語帳や市販の単語集を使って英単語を覚えようとする努力のことだとして、話を進めます。

     このやり方を取る時に、覚えようとしているものは何かと言えば、英語の単語の意味を日本語で書いたもの、言い換えれば、「英語の単語と日本語の単語の組み合わせ」だということになります。ある言語の単語と別の言語の単語の組み合わせというものは、どちらの言語を使うときにも全く使えません。それを何百組、何千組覚えたところで、どちらの言語もできるようになりません。単語帳を使うこと自体が悪いのではありません。ただ、“単語と日本語訳のペア”を覚えるという方法が、実際の英語使用にはつながりにくいのです。

     単語を覚えるのが無意味だったら、どうしたら英語ができるようになるのかと思われるでしょうか。その一つの答えは、至って平凡な答えになりますが、辞書を引くことを厭わないことです。昔と違って今は、お手元のスマートフォンでGoogle検索をするだけで用が足りますから、重い紙の辞書を持ち歩く必要もありません。同じ単語を10回でも20回でも調べればよいのです。

     辞書というものは、外国語の単語の取り扱い説明書だとお考えになれば良いと思います。新しい機械やソフトを入手した時に、いきなり取扱説明書を暗記しようとする人はいません。また、取扱説明書を暗記したところで、当の機械やソフトは全く使えるようになりません。取扱説明書を頼りにまずは何とか使ってみて、うまく使えなかったりエラーメッセージが出たりしたら、何度でも取扱説明書の必要箇所を見ればよいのです。

     私は一方で、「1000単語でビジネス英会話は完璧!」や「中学英語の単語だけで日常会話はOK」式の語彙数は少なくて良いという考え方にも与しません。どんな言語においても語彙力は教養と能力のバロメータですから、多いに越したことはありません。ただ、「単語の暗記」という方法論が無意味だと言っているに過ぎません。

     語彙を増やす方法ですか?どんな能力を高めるにも、方法は実践と試行錯誤しかありません。実際に文章を読みながら辞書を引く、自分が使いたい文脈で単語を使ってみる。まずはそんなところから始めてみませんか?

  • イタリア語の起源

     イタリア語の起源には、実は少し不思議な話があります。現在の「イタリア語」という言語は、19世紀の作家アレッサンドロ・マンゾーニが、「いいなづけ」(I promessi sposi)という小説を書くときに、トスカナ語の語彙にフランス語の文法を適用して作り出した人工言語である、というのが通説になっていて、私もそのような説明を受けていました。19世紀のイタリア統一前、イタリアには多数の方言が存在し、共通語が必要とされていた時代のことです。

     私は先にフランス語を学んでいましたから、イタリア語の文法の勉強はきっと楽だろうな、と期待していたのです。ところが、実際にイタリア語を勉強してみると、フランス語とは全く違うことがたくさん出てきます。そもそも単数と複数で名詞の語尾の母音が変わるし、命令形の作り方も違います。その他にも、大筋の考え方が一緒でも細かい規則が一々違ったりして、紛らわしいことこの上ありません。結局、「文法はフランス語と同じ」という先入観のせいで、習得には余計時間がかかることになってしまいました。

     さすがに不思議だったので、ある時イタリア人に聞いてみたことがあります。「イタリア語は、フランス語の文法を使ってマンゾーニが作ったと聞いていたが、勉強してみたら文法がまるで違う。あのイタリア語の起源の話は本当なのか?」と。すると彼は、イタリア語の起源については間違いないと答えた上で、推測としてこんな風に言っていました。「イタリア語はローカルな言語で余り変化していないけれども、フランス語は植民地を持って世界に広がる過程で文法が整理されたり、単純化されたりしたんじゃないかな。」

     彼の推測が当たっているのかどうか、残念ながら今のところ確かめられていません。でも、仮説としては魅力的だと思っています。

    追記;マンゾーニ「いいなづけ」の魅力

     このブログの趣旨とは外れますが、これだけはどうしても言っておかないといけません。イタリア語の起源として名高いマンゾーニの「いいなづけ」は、一個の文学としても非常に面白いので、絶対にお勧めです。内容が面白いだけではなく、前半と後半で作風がガラッと変わるのが、実に興味深いです。冒頭から本筋に関係のない多くのエピソードを交えた前近代的スタイルで進んできたと思ったら、インノミナートという人物の登場を境に、人物の心理と性格にフォーカスした近代小説に変わってしまうのです。私は、平川祐弘訳の重い本で読みましたが、文庫版も出ています。大長編で、簡単には手に取れないと思いますが、是非記憶の片隅には置いておいてください。

  • 過去にはいろいろ…

     英語の時制がなぜ分かりにくいのか。他のヨーロッパ言語と比べると、その理由がすっきり見えてきます。

    ヨーロッパ言語で「時制」は表現の要ですが、そのあり方は言語によってかなり違います。一口に「過去」と言っても種類があり、私が学んだ言語の基本的なパターンは、フランス語とイタリア語のように「複合過去」と「半過去」からなる形です。「複合過去」は、英語の「現在完了」にほぼ相当する複合型(ただ、haveの代わりにbe動詞を取る動詞があって、もう一段複雑です。)で、その出来事が過去に起こったことを単純に表すとともに、過去の経験を表します。これに対して半過去というのは、過去の進行中の出来事、過去に反復された出来事などを表します。

     スペイン語には、「点過去」と「線過去」があり、概ねフランス語の「複合過去」が「点過去」、「半過去」が「線過去」に当たりますが、「点過去」は複合型ではなく独自の活用があります。そして、「点過去」とは別に複合型の「現在完了」も存在し、その分「点過去」は「終わってしまったこと」のニュアンスが強くなります。

    フランス語の複合過去:
             J’ai mangé.
          半過去 :
             Je mangeais.
    スペイン語の点過去 :Comí.
          線過去 :Comía.

    ラテン語には複合型の時制はなく、過去は「完了」(「複合過去」、「点過去」に相当)と「未完了」(「半過去」、「線過去」に相当)で構成されます。他に過去完了と過去未来があるのですが、話がややこしくなり過ぎるので省略します。

     さて、英語です。英語には、「半過去」、「線過去」、「未完了」に該当する時制がありません。しかし、過去形のほかに「現在完了」があります。その結果、本来水と油のはずの「現在完了」が「半過去」の役割を担うと同時に、過去の継続中の行為については、「過去進行形」という形が作られて、文法的にすっきりしない複雑な形になり、初めて学ぶ人には大変分かりにくくなってしまっているのです。これは、英語の世界の中だけで頭をひねってうんうん言っていても解決するものではなく、こうして他の言語と比べてみることで、初めてすっきり頭に入ります。

     他の言語には存在する文法が存在しないために、表現のルールがややこしくなってしまう例は、何も英語だけに限った話ではなく、多かれ少なかれどの言語にもあります。簡単ではないですが、複数の言語を同時に学ぶことには、こんなご利益もあるのです。

  • シャーロック・ホームズになれない理由

    ここでは、正解志向がなぜ間違いで、仮説思考がなぜ重要なのかについて説明します。ただ、哲学的に高度な話になるので、かなり難しいかもしれません。できるだけ分かりやすく説明しますので、ついてきてみてください。

    「青い紅玉」という作品の冒頭で名探偵シャーロック・ホームズが、留守の間に訪れた依頼人が残していった帽子を観察しながら、所有者の人となりや暮らし向きまで見事に言い当てる場面があります。半世紀を超える探偵小説ファンの私も、子供の頃その格好良さに魅せられ、自分もいつかそんな見事な推理ができるようになりたいと憧れたものでした。

    でも、私はシャーロック・ホームズにはなれませんでした。今ではその理由もはっきり分かっています。それを教えてくれた哲学者がカール・ポパーでした。問題は、どれだけ多くの証拠や根拠やデータを集めたら、ある理論が正しいことが検証されるのか、ということです。1000個の理論を肯定するデータを集めたとしても、1001個目のデータが理論を否定しない保証はありません。しかし、科学は客観的なデータによって検証されてこそ科学足りうるので、理論がデータによって検証されないのであれば、それは科学とは言えないのではないか、ということが当然に問われます。

    ここでポパーは「検証」と「反証」の非対称性に注目します。理論が絶対に正しいことを「検証」することはできないけれども、理論が間違っていることを明らかにする(「反証する」)ことは可能です。言い換えれば、どれだけ根拠を集めても「絶対に正しい」とは言えないけれども、間違っていることは一発で分かるということです。だから、反証される可能性のある理論は、科学理論として扱ってよいし、扱うべきだというのがポパーの解決でした。

    どれだけ多くの「根拠」を集めても「正しい選択」はできません。でも、仮説の間違いを発見することは比較的容易です。(もちろんこれにも技術がありますが。)シャーロック・ホームズのような百発百中の名推理はできませんが、間違えるたびに少しずつ真相に近づいて行く泥臭い凡人型探偵なら、ちょっとしたコツを知れば誰にでもなれます。英語も全く同じことです。